記憶の海、Roseのプライド

2023年3月1日~4月9日

中村屋サロン美術館

〜 愛を手放さないのは 私たちのプライド。還ってゆく場所には 争いも差別もない。

私は Rose。ここにいる。

記憶の海、Roseのプライド

今年98歳になる父の部屋にあった、私の母方の祖母の籐椅子を数年前に譲り受けた。日系2世アメリカ人としてハワイに生まれた祖母は、親の都合で17歳の時に日本に渡り、同時通訳として働き、結婚して3人の子を持った。ところが長女(私の母)が7つの時、日本とアメリカは戦争を始める。敗戦後、渋谷の自宅に引きこもって過ごした彼女は、いつも穏やかで、戦争の不条理について語ることはなかった。そんな彼女が、実はアメリカのパスポートを更新し続けていたことを知ったとき、一日中籐椅子に座って過ごしていた晩年の彼女の目に映っていた風景は、一体どのようなものだったのかを想像するようになった。

 

展覧会のタイトル『記憶の海、Roseのプライド』の“Rose”は、愛や誇りを表すバラのRoseであると同時に、祖母のように日系2世であるが故に人生を翻弄された「東京ローズ」のRoseにもかけている。お嬢様育ちでアルコール中毒症に悩むことになる、昭和生まれの生真面目な母。軍人教育を受け、戦後は高度経済成長に尽くした大正生まれの父。戦後に生まれ、アメリカ人と家族になった私。昭和を生きた家族それぞれの物語が、流れ着く「記憶の海」。あらゆる運命と折り合いをつけ、愛を手放さずに生き抜く意志としてのRoseに出会うことができるだろうか。それぞれのRoseを自分の中に感じることは、葛藤の時代の希望ともなり得るのではないだろうか。



展覧会は5つのパートに分かれ、それぞれのテーマを親子3代が語る、という手法をとった。最終章 記憶の海 に展示されるインスタレーション『Roseのプライド』は、祖母の使用していた藤椅子とバラの花弁を使った。「Rose」とは戦時中、祖母と同じく日系人であることによって人生を翻弄された「東京Rose」にかけている。

第1章 旅の初め

語り手 マツノの孫 (昭和39年生)

森の泉』1993年 岩絵具、アクリルペイント、和紙 240.0×360.0cm  Photo 中川達彦

私は子供の頃から動物や絵が好きだった。

でも、獣医になり損ね、絵描きにもなり損ねてしまった。

手痛い失敗もして、アメリカに行き、

一人で生きなければならなかった。

偶然が重なり、アメリカ人と家族になり、

今、画家を目指していた頃に描いた絵の前に立っている。

選択し、選択され、

さまざまな方向に向かってゆく人生。

日本でアメリカのパスポートを持ち続けた祖母と、

アメリカで日本のパスポートを持ち続けている私。

マツノさんに会いたいな。

100年くらいの時間なら、感じることができそうだ。

自分と祖母の時間をつなぐ旅に出てみようか。

Animation 中田拓法

第2章 楽しい人生と思わぬ変化

語り手:マツノ(明治38年生)

『祖母マツノの肖像』(マツノのゆかりの地を巡っての樹木のフロッタージュ(和紙、木炭)、色鉛筆、パステル、アクリルペイント、胡粉、亜麻布、プロジェクター、タイプライターに”rose”のタイプ、祖母マツノの写真  インスタレーション Photo 中川達彦

私はハワイのヒロという町で、

たくさん遊び、たくさん勉強して育った。

当時の日系人家庭の中では豊かで、

姉と二人で和菓子店の看板娘だった。

でも、17歳の時に、

あと一年で高校を卒業できるのに、

親が病気になって、

九州の福岡に帰ることになった。

父が亡くなって、

大阪で同時通訳やタイピストの仕事をした。

おしゃれをたくさんして、

お友達と飛行機に乗せてもらったり、楽しかった。

賢くてハンサムな彼と結婚した。

でも、田舎のいいお家の長男とかで、

アメリカ人の私はいじめられた。

長女ができたら、実家の人たちが、

子供には優しくしていた。

そんなことがあったので、

長女にはちょっと厳しかったかもしれない。

でも、私を最後まで見てくれた長女には、

感謝しています。

いろいろな秘密は、私とおじいさんだけのもの。

二人で、家族を守らないと。

 

ドレスを着たマツノ

『祖母マツノの肖像』 ― 祖母ゆかりの地にて  2021 年 フロッタージュ(和紙、木炭)、色鉛筆、パステル、アクリルペイント、胡粉、亜麻 布 240x225cm Photo 中川達彦

『タイプライター‐Rose 』― 日系アメリカ人の方々ゆかりの地にて 2002 年 フロッタージュ(木炭、和紙)、タイプライター  Photo 中川達彦

第3章  よじれた人生

語り手:マツノの娘 (昭和7年生)

(左)『誕生 I (長女)』 ― 長女の生家にて   (右)『誕生 II (次女) 』― 次女の生家にて  2022 年  フロッタージュ(和紙、木炭)、ベビースップーン、ベビーフォーク   Photo 中川達彦

『サントリーウイスキー』2022年 マツノの長女(百合子)のゆかりの地、久里浜医療センターの樹木のフロッタージュ(和紙、木炭)、ウイスキー入りガラスボトル  Photo 中川達彦

『牧野日本植物図鑑 』― 母ゆかりの地、小石川植物園にて  2022 年 フロッタージュ(和紙、木炭)、牧野日本植物図鑑  Photo 中川達彦

『研究室 』― 母ゆかりの地、東京薬科大学跡地にて 2022 年 フロッタージュ(和紙、木炭)、生物顕微鏡  Photo 中川達彦

私は「良い家庭」に生まれた。

けれど、長女だったために、

いつも貧乏籤を引いていた。

母は、なぜか、妹や弟だけを大切にした。

戦争が起こって、

母は体が弱くて労働は無理だったから、

私が労働をした。

戦後は父親が会社を起こして、

家政婦もいて、立派なお庭もあった。

大学で薬剤師の資格もとって、東大で働いて、

毎日、顕微鏡のぞくのが楽しかった。

でも、ある日好きでもない人とお見合いさせられて、

全てを奪われてしまった。

生まれて初めて「お前」呼ばわりされて、泣いた。

こんな生活のはずではなかった、

でも、

どうやってここから抜け出せばいいのか分からない。

子供もできてしまったし。

どうしたら、私の人生を取り戻せるのだろう。

*『女』とのコラボ (宮森ノート)

『女』は荻原守衛が亡くなる直前1910年に完成させた非常に良く知られた作品です。よじるようにして上を向くこの『女』を、第3章  「よじれた人生」の章に持ってきたことは、私がこの彫刻に、どうしようもないジレンマを感じながら、その場所に留まっていなければならない、それでも上を見つづけようとする、そんな女性の気持ちを重ねたからです。これは特に、母のように高学歴で、仕事についていたにもかかわらず、家庭を守るために、仕事を辞めなければならなかった多くの昭和の女性に見られた精神状況ではなかったでしょうか。

第4章 時の積み重ね

語り手:マツノの娘婿(大正14年生)

『TIME 』Day 1- Day 420(10.11.2021‐12.4.2022)2021‐22年 (主に)マツノの娘婿(幸雄)の散歩道での樹木のフロッタージュ(和紙、木炭)、ガラス、銅、ハンダ

うちは貧乏で、子沢山だったが、親は偉かったなあ。

全員中学まで行かせてもらったから。

兄貴は書生をしながら東大に行った。

兄貴と親に仕送りをしながら、

俺は士官学校で寮も食事も教育も全て無料だった。

卒業の年に戦争が終わった。

働きながら、

自動車会社の金で夜学でエンジニアの資格をとった。

学校ではいつも後ろの席で腕を組んで、

先生が間違えないか見張っていたもんだ。

 

公害問題でメーカーが叩かれてたから、

俺のチームで排気ガス減少させるエンジン開発した。

ライバル会社は外国から金出して技術を買ってたな。

俺は絶対に自分で開発できる、

と思っていたから嬉しかった。

 

マツノおばあちゃんは

本当に「仏様のような」人だった。

親父さんにも本当にお世話になった。

あいつのことは親父さんに頼まれたから、

見捨てられない。

 

今は、何も思い出せなくなった。

俺の頭はバカになった。

ここまで生きるとは思っていなかった。

知っている人は、皆いなくなってしまった。

第5章 記憶の海

語り手:マツノ (天国から)

『Roesのプライド』(藤椅子、和紙、木炭、バラの花弁、亜麻布、ポリエステル布、ガラス、ハワイの海のビデオ)2023 年インスタレーション ビデオ撮影 宮森敬子 ビデオ構成 大澤未来  サウンドエンジニア 熊野功雄(協力 PHONON Inc.)

光と闇の波を受け

まあ、よく生きた。

苦しみのRoseたちも
今は自由

愛を手放さないのは

私たちのプライド

還ってゆく場所には

争いも差別もない

私はRose

ここにいる

スクリーンには4部構成からなる『記憶の海』と題するビデオ作品(宮森敬子撮影・大澤未来構成)が投影

『記憶の海』 (11分38秒)

1 「母と娘」 (久里浜のアルコール治療院の前の海を見ながら、母と娘の会話)

2 「人生の渦」 ハワイの海

3 「浄化」ハワイ島の海

4 「天国」ハワイの海

「記憶の海に踊る/踊らされる」 2023年3月6日宮森敬子作品×新井英夫即興ダンス

「記憶の海に踊る/踊らされる」 2023年3月6日宮森敬子作品×新井英夫即興ダンス “Dancing /be danced in the sea of memories” March 6, 2023 Keiko Miyamori's Artworks × Hideo Arai Improvisational Dance 宮森敬子展記憶の海、Roseのプライド2023年3/1水~4/9日(中村屋サロン美術館) に関連した美術作品と即興ダンスの動画プロジェクト。 Keiko Miyamori Exhibition "Sea of Memories, Rose's Pride" (March 1 (Wed) - April 9 (Sun), 2023, Nakamuraya Salon Museum)Artworks and improvisational dance video project related to . 収録日2023年3月6日 ●作品展示:宮森敬子 ●ダンス:新井英夫 ●音と制作:板坂記代子 ●撮影編集:阪巻正志 ●協力:中村屋サロン美術館 Recording date March 6, 2023 ●Artworks: Keiko Miyamori ●Dance: Hideo Arai ●Sound and Production: Kiyoko Itasaka ●Shooting editing: Masashi Sakamaki ● Cooperation: Nakamuraya Salon Museum --------------------------------------------------------------------------------------- 「記憶の海に踊る/踊らされる」  体奏家・ダンスアーテスト 新井英夫 宮森敬子さんと初めて仙台のグループ展でお会いし作品を目にした時、素材との丁寧で繊細な対話から生まれる世界観に深く共感を覚えた。その後は数年を隔てて米国フィラデルフィアと横浜で再会し「いつか何かを一緒にやれたら…」という思いを互いに温めてきた。気が熟し中村屋サロン美術館での今回の展示で実現することになった。深謝です。美術の宮森さんとダンス身体表現の新井との間には、手法は違っても通底することがある気がずっとしていた。それを解く手がかりは宮森さんの作品を貫く「和紙」だ。薄く柔らかな和紙は物体として空気や温度との関係の中で容易に「フワリと動かされる」ふにゃっとした存在だ。生きものだったけれど今はモノでもある。文字も記される。「和紙」は生命と記憶の媒体である。進行性の難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の確定的診断を2022年夏に受けた私は、筋力低下によって以前ほど自由には動けない。だからこそ宮森さんの作品たちに宿る生命と記憶とモノのちからによって、即興的受動態として「フワリと動かされ」てみたかった。動画収録はすべて即興の一発撮り。撮影と編集の阪巻正志氏には阿吽の呼吸で臨んでいただいた。「作品とダンスした」というより「作品に溶け込んでその一部になってしまった」ような不思議な体験だった。このダンスの記録動画も作品展もぜひ双方共に味わっていただけたらと思う。 ---------------------------------------------------------------------------- 「体奏家・ダンスアーテスト 新井英夫さんのパフォーマンスに寄せて」                         宮森敬子 新井さんと出会ったのは20年前、画家の小林俊介さん、石原延啓さんとの3人展を行った時に、小林さんから紹介していただいた。 先日、パフォーマンスを終えて、予想を遥かに超えたビデオのフッテージが集まった。撮影と編集を担当されているのは、写真家の阪巻正志さん https://www.m-sakamaki.com/ 新井さんのアイデアを聞きつ、各章の動きを、確実にテープに収めて行く。坂巻さんは信州大学農学部卒業後、浄土真宗布教使もされていたと聞く。(アフリカンドラムと二胡も奏でることができるそうだ) 会場は中村屋サロン美術館。中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光夫妻は若き芸術家などを支援し、明治末から大正、昭和初期にかけて、中村屋に集まる芸術家・文化人の集まりは「中村屋サロン」と呼ばれた。そのスピリットを受け継いだ企画の一つに今回の「アーティストリレー」がある。来館するたび、ここが自然と良い縁を繋ぐ磁場だったと感じる。 去年11月に、私は新井さんに電話して、コラボのお誘いをした。その時のやりとりを、そのままシェアしようと思う。 宮森から新井英夫さんへ 2022.11.20 「昨日はお話しできて嬉しかったです。思えば何年前になるでしょうか、平成15年、2003年ですから20年前に仙台の美術館で小林さんとのグループ展で初めて会って、そのあと、東京でお豆腐屋さんか蕎麦屋さんか、こだわりのお店に連れて行っていただいて、しばらくして、確か、アメリカで道を一緒に歩きませんでしたか?その時に、いつか、パフォーマーとして、作品一緒に作りたいとプロポースして。またずっと後になって、横浜で2018年に展示をした時に、作品の中で舞っていただいて、やはりいつかコラボしたいということになって、そして、昨日の電話でしたね。私の記憶が間違っていなければ。 パフォーマンス、引き受けてくださって、ありがとうございます。 何か語りたいのですが、ここにうまく、書けるかどうか。私は私の物語しか心から語れません。でも、アートにすると、それが個人の物語から、違う物語となって、どこかで、切り結んで、それがもしかすると、一見、全く違うテーマであっても、やはりつながる必然があって、その強さが人に感動を与えたり、それぞれの物語を紡ぐきっかけとなったり、つまり、エネルギーを生み出す、それが人間の心の素晴らしさのような気がしています。私も実は、アーティストとして絶望にも似た気持ちになっていた時もありました。でも、そのおかげで見えた風景もあると、今では思っています。 新井さんのRose (私が勝手に呼んでいる、花、人間の持っている尊い何か)が見たいです。」   完成版は近く公開される予定です。 パフォーマンスを見たひとりひとりに、それぞれの「Rose」が感じられますように。                                  宮森敬子

マツノさんの若い頃、同じ日系2世の友人と共に(戦前の日本で撮影したと思われる)

特別寄稿 〜日系2世のアイデンティティについて (展覧会配布資料)

引き裂かれた自己の記憶~日系二世の人生~白水繁彦

宮森敬子さんのアートワークは複雑で壮大なテーマに挑んでいます。

100年に亙る家族の歴史、そこに実在する個々の人生、そしてかれらの人生に否応なくのしかかる社会変動、とりわけ大きな影を落とす戦争・・・・。それを当事者として、さらにジェンダーの視点も交えて捉えようとしています。

登場人物のなかでも私が注目するのは、このファミリーヒストリーの起点ともいうべき祖母・マツノさんです。マツノさんはハワイ生まれの日系二世。二世は悲劇の世代です。かれらの前半生は、いまのわれわれからは想像を絶する混乱と激動の真っただ中に置かれていました。

マツノさんのプロフィールをみてみましょう。彼女は「日本人の両親」(一世)のもとに1905年、「ハワイ」で生まれた「日系二世」の「女性」です(二世のベビーブーマーは1910年前後から1920年代に生まれていますから、マツノさんは二世としては年長の部類に入ることになります)。彼女は、戦前、日本に渡り、帝大出のエリート日本人男性と結婚。3人の子どもを産み育て、1988年、日本でその生涯を閉じます。

アメリカ生まれの二世はアメリカ政府の属地主義的国籍法により、生まれながらの「アメリカ市民」です。さらに日本政府が属人主義的な国籍法を採っているために、親が日本の在外公館に出生届を出せば「日本国籍」も取得できました。おそらくマツノさんは、多くの二世同様、ハワイでは二重国籍保持者だったと思われます。いっぽう一世は、アメリカ政府の差別的な法律により1952年までアメリカ国籍(市民権)を得ることができませんでした。したがってマツノさんの両親は法律上「日本人」でした。親子で国籍上の「分裂」があったわけです。

そして一世である両親は、ハワイに亙ってくる前、明治政府が推進した学校教育によって「天皇制」に基づく「国家主義」を叩きこまれた世代です。このイデオロギーの基本は個人の人権より「国家」の方針がはるかに優先します。天皇制に基づく国家主義は家庭内では「家父長制」という形をとります。つまり家族は父親を頂点に序列が決まっており、これは絶対に守らなければならない。マツノさんの両親は国籍という身分も、意識(価値観)も「日本人」だったわけです。したがってマツノさんは、他の二世と同じように、こうした両親によって家庭教育を受けたと思われます(ちなみに、家父長制では女性は男性の下に位置付けられます。男女差別が制度化されていたわけです)。

いっぽうでアメリカ市民のマツノさんは公立の小学校から高校までアメリカ式の「民主主義」教育を受けます。アメリカ民主主義の「タテマエ」は基本的人権が憲法で守られているということです。個人の自由の範囲が広いわけです。二世にとってたいへんだったのは、放課後、こんどは日本語学校へ、6年ないし9年間、通わされたことです(戦前、多くの一世たちは二世が言語も精神も「りっぱな日本人」になることを期待したのです)。この日本語学校では日本人教員が「修身」をはじめとする国家主義的な教育をほどこします。学校というフォーマルな場で、午前中は民主主義的な価値観、午後は国家主義的な価値観を教わる。家に帰ると家父長主義的な家族関係が待っている。多くの二世は、その分裂に苦しんだことでしょう。女性は精神の安定を保つのにさらなる苦労があったはずです。

このあと二世にはさらに過酷な運命が待っています。太平洋戦争です。親の国と自分の国が戦争状態に陥ってしまったのです。「引き裂かれた精神状態」にあった人も少なくないはずです。その時はすでに日本に渡っていたマツノさんは日本のラジオや新聞で日米開戦の報に接したはずですが、その心中、察して余りあるものがあります。アメリカにいた二世のうちアメリカ西海岸の二世たちは親である日本人といっしょに悉く内陸の収容所に抑留されます。その数約12万人。いっぽう、ハワイでは日系人口の1%強の約2000人が開戦後逮捕され、米大陸やハワイの収容所に抑留されました(そのなかには、後述するように、帰米二世も含まれています)。

アメリカ人だと信じていたのに敵国人として抑留されてしまう。ハワイやアメリカの二世のなかにはアイデンティティの危機に陥ったものがいたにちがいありません。「アメリカ人なのか日本人なのか、それともそのどちらでもない存在なのか?いったい自分はいったい何者なのか?」

そのような中、アメリカ政府が二世の志願兵を募るという報に接した二世の青年たちのなかには命を懸けてアメリカ人であることを証明しようとしたものがいます。数万におよぶ二世がヨーロッパの決死の戦場へ向かいます。のちに連邦議員となってアメリカ議会で大活躍するハワイ出身のダニエル・イノウエ(1924-2012)に代表される日系部隊へ志願した若者です。彼らは過酷な戦場に投入され続け、死傷率300%という米陸軍史上最多の犠牲者を出すことになります。この数字から、二世兵の中には何度も負傷し、そのたびにまた戦場へ送られたものがいたことがわかります。 

また、日本軍を相手にする太平洋の戦場では日本語の達者な二世が情報兵として活動します。 いっぽう、ごく少数ですが、フレッド・コレマツ(1919-2005)のように、無実の市民を強制収容することは憲法違反である、と米政府を訴えた二世もいます。アメリカの民主主義を信じた若者です。しかし全米がマスヒステリアに陥っていた中、コレマツ青年は敗訴します。危機場面においては「タテマエ」としての民主主義も機能しないことがあるわけです。戦後アメリカではアフリカ系アメリカ人の公民権運動に刺激されて、マイノリティの権利を再確認する動きが出てきます。民主主義が機能するようになったのです。1998年、クリントンがコレマツに大統領自由勲章を授与します。コレマツは名誉を回復するばかりか、今度は「英雄」となったわけです。イノウエらとコレマツらの決断は、いわば両極に位置するわけですが、在米の多くの二世は、この両者の間のどこかで苦しみ、悩んでいたことでしょう。

ところで、日本には、開戦時に3万人近い二世が暮らしていました。留学や就職、親戚の手伝いなどの理由で滞在しているうちに戦争が起きてしまったのです。アメリカへ帰りたいと思った二世もいたのですが、戦争で国交が断絶したので、多くが日本に残留せざるをえませんでした(マツノさんはこの時すでに結婚して日本人の妻となっていたのでアメリカへ帰国するという選択肢はなかったと思われます)。二世の男子のなかには日本軍に徴兵された人も少なくない。なぜなら二世の多くは日本国籍も保持していたからです。その結果アメリカで兵隊となった兄弟と敵対関係に陥ってしまいます。実際、米軍の語学兵として太平洋戦線に派遣された二世のなかには、日本軍にいた兄弟と戦ったものもいます。国家が犯す罪のうち戦争ほど過酷なものはないということがわかります。

日本に取り残された二世には英語などの能力を活かして企業などで仕事を続けた人もいます。なかには日本軍関係の部署で働いた人もおり、対米謀略宣伝に加担させられた「東京ローズ」ことアイバ・トグリ(1916-2006)もそのうちの一人です。彼女はアメリカ国籍を保持していたために、戦後、国家反逆罪により収監されます。なかには、身の安全を守るために、戦争中アメリカ国籍を捨てて日本国籍だけを保持した人もいます。いずれにしても在日の二世は自らの人生ストラテジーにしたがってアイデンティティを操作せざるをえなかったわけです。どんなにひっそりと暮らしていても、アメリカ国籍を持っている、または持っていたことがわかればスパイの嫌疑を受け、特高(特別高等警察)につけ狙われることも珍しくなかったのです。後ろ指をさされないように、二世は男性も女性も、日本人よりも日本人らしく振舞う。それこそ愛してやまないアメリカの文化を押し隠して生きなければならない人も少なくなかったと思われます。

母親になった二世は子どもが「りっぱな日本人」になるよう細心の注意を払って厳しく教育したはずです。マツノさんは1932(昭和7)年に第1子の女児を出産します(この子がのちに敬子さんの母親になるのです)。軍国主義の時代、「りっぱな日本女性」に育て上げなければならないという極在日度のプレッシャーがマツノさんにのしかかっていたと思われます。在日経験のある二世には、戦前、戦後にアメリカやハワイに帰って来た「帰米二世」(きべい)といわれる人びともいます。戦前に帰米した二世のなかにはアメリカ軍や政府から日本のスパイであるとの容疑を受け、とくに日本で中等学校以上の教育を受けた人には強制収容された人も少なくありません(彼らは前述したハワイからの抑留者2000名のなかに含まれています)。もちろん無実の罪での逮捕です。

古今東西、戦争で青春を奪われた世代は少なくない。じつは私の両親も日中戦争、太平洋戦争によって人生が翻弄された世代です。そう、二世と同世代の人間でした。だから二世の人生は他人事とは思えないのです。私がはじめてアメリカで二世に会った頃、かれらの多くはそろそろ老年にさしかっていました。かれらは皆とても優しく、穏かな笑顔で接してくれました。若く無知な私は、その温顔の底に、国家やイデオロギーによって引き裂かれた青春の記憶が秘められていたことに気付きませんでした。それは私の父母のそれとは比較にできないほど過酷なものだったはずです。当時のかれらと同年配になった今、私はかれらが辿ってきた人生が少しばかりわかるような気がします。日本人の妻となり日本に住んでいても終生アメリカ国籍を保持し続けたマツノさん。もし今、彼女に会ことが出来たら、私はだまって優しく彼女を抱きしめることでしょう。

(しらみず・しげひこ) 社会学博士。駒澤大学・武蔵大学名誉教授、40年余りにわたって海外日系人の文化変容に関する調査研究を続けている。